コミュニケーションって何だろう?

 平成の時代に終わりを告げようとしている今、団塊の世代と言われる「古希」を迎えた私にとって時代の趨勢を改めて考えさせられることが多々あったと感じる。
異常気象や地質活動の活発化が齎す災害に見舞われた平成の時代は、文明に酔った我々の日常生活が如何に生身の人間のコミュニケーションを失っていたかを反省させられる面を見せつけられた様にも感じる。

 当たり前のことではあるが、文明の発展は基本的な人的要素を破壊する。 移動手段に利便性が高まれば運動機能は低下するだろうし、求めなくても情報が供給されれば情報収集能力が低下する。 自分自身もそうであるが、カーナビの恩恵に預かる様になってからは車を運転していても地理的直観が疎くなっているのを痛切に感じさせられる。

 直接訪ねたり、固定電話で自宅に電話をして伝えたり、相手のことを聞いたりすることもめっきり減った。 その代わり飯を食って居ようが、トイレに入っていようがお構いなしに電話の呼び出し音が鳴り渡る。 自分自身の家族ですら、誰とコンタクトをしているのか正確には判らない。 昔ならリビングに固定して置かれた電話でしか話せないが故に聞かれたくもない話しを聞かれてしまう不自由さはあったものの、発生する問題を未然に察知することもできた。 この様なことを若者に言うと管理社会の様に捉えられるが、コミュニケーションと云うのは適度な管理社会ではないだろうか。

 インターネットやスマホが当たり前の日常の生活手段の一つとなった今、私の様に古い時代を生きて来た人間にとって、コミュニケーションとは何なのかと考えてしまう。

 若者のコミュニケーション手段は、LINE、Twitterに代表される様に、「短文で手軽」、「同時の対多数通信」、「非同期性」、など束縛されないコミュニケーションが故のメリットがあり、取っつき易いのだろうと感じます。 その反面、許容範囲内でのレスポンスがないと苛立ったり、意味のない揉め事に発展している例も見受けられ、本当に何を求めているのかと疑問も湧いてきます。

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