読まれなくなった新聞

 先日娘との会話で、自宅で新聞を購読していないことを改めて知った。 私が育った家では両親、姉ともに新聞を良く読み、色んなことを知っていた。 そんな家庭環境に反発する訳でもないが、私自身は他人が綴った活字を読むのが至極苦手であった。 小学校のころから殆ど読書もしたことがない。

 小学校の夏休みの宿題は、母親と姉には結構迷惑をかけた。 今もその様な宿題があるのかは知らないが、「読書感想文」である。 母親と姉の努力で、夏休み後の登校日に先生に叱られることはなかった。

 そんなことで、読書だけではなく私自身新聞を読む習慣もあまりない。 社会人になったころは、社内や顧客との日常会話に引け目を感じることもあった。 その為、時間がある時は自宅で購読している新聞や気懸りなことを耳にした時は、駅の売店で新聞を買い求めることもあった。 しかし、好きではないことは長続きせずそのうち器用で日常を遣り過ごすことが多くなり、自分なりにテレビや人との会話で情報を得る処世術を身に着けて行った様に記憶している。

 私の様に活字を読むことが好きではない人は別として、新聞を購読しなくなった昨今、その原因はどこにあるのだろうと思い娘に問うてみたものの然したる理由を聞くことはできなかった。 ただ、面白い答えを得ることができた。
「若い人が新聞を読まない訳ではなく、会社がとっている新聞は結構皆読んでるよ。」と言う。

 ということは、新聞を必要としていない訳でもなく、お金を払ってまで読もうと思わないということなのだろうか。 もっといろいろな層の人にも、新聞に対する意見を聞いてみようと思う。

電車の中の光景

 電車に座っていると最近は新聞を読んでいる人を殆ど見掛けなくなった。 長い時間の経過の中でゆっくりとした変化なんだろうと思う。 20年ぐらい前は、通勤の満員電車の中で新聞に見入るサラリーマンが多く居たのを思い出す。

 新聞から得られる情報が今日のビジネスに大きく影響するのは紛れもない事実であるが、インターネットや電子媒体の情報が多くなったことで、通勤の寸暇を惜しんで電車で新聞を貪る必要はなくなったのだろうか。

 どこの家庭も新聞を購読し、自宅で購読していない経済紙やスポーツ紙は駅の売店で手に入れる。 そして満員であることにはお構いなしで新聞を広げる。 隣に立っている人は横目で新聞を避ける。 当時はそんなことは当たり前だったし、駅に着いて満員から解放された瞬間にそんなことは忘れてしまっていた。

 時代は過ぎ、今は新聞がスマホに置き換わった。 しかし、昔の新聞がスマホに変わった様にも思えない。 別に覗いて見ている訳ではないが、殆どの人のスマホの画面は大きく2種類の表示がでている。 一つは画面の画像が激しく動く。 たぶんゲーム。 もう一つは画面の左右からメッセージが生えているLINEと思える画面。 どの人も忙しそうに画面の上で指を走らせ、タップを繰り返す。

 新聞の時代もスマホの時代も、周りの人にはお構いなしで自分の世界で充実を図っているらしい。 いつの時代も、乗っている以外にすることがない電車の中の光景なんだろう。 然し、私としては、情報の意味をもう少し考えたい。 次回の投稿に!