コロナ禍に於いて企業が求めるもの

 新型コロナ感染が蔓延し始めて早や1年と3ヶ月が経過した。 緊急事態宣言が発出され、自粛が呼び掛けられる中、日常生活や仕事において充分な気遣いをしている人が殆どではあるが、コロナ以前の日常と大して変わらぬ日々を過ごしている人も少なくない。

 自粛の煽りを受け飲食やイベント関係は直接的影響を受け、経営が成り立たなくなっている状況を考えると、例えコロナが終息しても日常は取り戻せないところまで来ているのではないかと危惧する。

 一般企業は、可能な限りテレワークと云うお達しに従ってはいるものの、ジワジワと業務、経営に致命的な影響が出てきているのではないだろうか。 私自身も犇々とビジネスへのダメージを感じている。 「もう少しの我慢!」と借入などで今日を凌いでいるものの、明日はどうなるのだろうと不安で精神的ダメージは大きい。

 サラリーマン諸氏は、在宅での勤務に色々な不都合はあるだろうが、会社事務所に勤務する緊張感を持たないまま、為すべき仕事を淡々と熟しているのだろうと想像する。
しかし、組織的集団の気配なき環境での仕事は決して生産性、創造性を育むとは思えない。 社会情勢が強いる業務環境は、会社全体の生産性や創造性を削いでいるのではないだろうか。 長期的にはその様な状況が積み重なり低迷に向かうのではないかと心配である。

 今、企業には何が必要なのだろう。 継続的に企業が変わらなければならない内容を整理して行きたい。

「システム」と云う言葉

 IT、ICTを仕事にしていると、「○○システム」というフレーズにやたら遭遇する。 自分自身も何かにつけて「□□システム」と平気で言っている。 今更と思うが、そもそも「システム」と言う用語の意味は何なんだろう? 日本語で何と言えば良いのだろうと考えてみた。

 英語の辞書で「System システム」を引くと、
   制度、組織、体制、社会秩序、体系、系統、身体などなど
多様な意味で使われていることが判る。 その中で目を引くのが、
   「整然とした手順、秩序」
と言う説明があり、なるほどなぁと感じた。

 「整然とした手順、秩序」ということは、システムと呼ぶためには、整然としていることが大切なんだろうと感じる。 整然としているとは、「正しく整っている」と云う意味であるから、理に適っていないこと、判り難いことをむやみやたらにシステムと呼ぶのは好ましいことではない。

 IT、ICTに於いても、理に適っており、判り易く、且つ正しい情報処理や情報提供に供することができるものが、「○○システム」と呼ぶに相応しいのだろう。 情報処理は、通常企業の業務を手助けし、その品質と効率に寄与しなければ意味がない。 そのためには、理路整然と利用者に判り易いものが求められる。 自分がその様な観点で企画や設計ができているのだろうか。 今一度見直してみようと思う。

新型コロナ倒産とサラリーマン生活の変化

 新型コロナは、多くの人の命を奪っただけでなく、企業の命をも奪って行く。

 2月2日、ネット上に東京商工リサーチ調べの情報が掲載されていた。 見るとここ1年で1000社を上回る「コロナ関連破綻」らしい。 破綻の全てが倒産とも限らないと思えるが、廃業や休業を含めると、数えきれない企業数になるのだろう。

 緊急事態宣言の1ヶ月延長に伴い、街の飲食の声が聞こえてくる。 飲食に対する自粛勧告が更に続くと飲食関係の営業破綻に止まらず、サラリーマンの日常習慣が変わってしまうとの恐怖の声が上がる。

仕事を終わって、帰宅の途中、親しい仲間とビールで愚痴をこぼし合う当たり前の日常が、当たり前のものでなくなり、たとえコロナが治まっても、真っ直ぐに帰宅するのが当たり前になるのではなかろうか。

 自分自身を考えても、仕事終わりにお客を誘い、仲間を誘う気持ちを抑えているのではなく、誘わないのが当たり前という感覚が、徐々に身に染みついてきた。 コロナが終息すると言っても、ある日突然感染が消滅する訳ではないだろうから、気軽に飲み歩こうという気持ちを突然取り戻すことはない。 コロナが治まったころ、不安を感じながら、徐々に徐々にそんな行動が甦ってくるのだろうから、相当な時間がかかる。

 また、テレワーク馴れしてしまったホワイトカラーたちは、きっと仕事の仕方を変えてしまうだろう。

 コロナ蔓延の今も怖いが、コロナが治まったと思えるその日以降も日常の怖さを感じる。

コロナとテレワーキング

 新型コロナ感染症がニュースの話題になって、早や1年以上の時間が経過してしまった。 「三密」、「安倍のマスク」、「ソーシャルディスタンス」、「自粛」、「ロックダウン」など、それまで聞くこともなかった言葉が当たり前の様に飛び交い、今日に至って、感染者は39万人を超え、死者も5700人を超えてしまった。 諸外国に比べれば被害は少ないと言えるかもしれないが、大きな損失であることに変わりはない。

 1年を経過しても、緊急事態宣言を解除できない状況に、生活、仕事、経済は混沌としてきていると言える。 リーマンショックも大きなダメージを受けたが、新型コロナ蔓延は単に経済の歪みだけの問題ではないことでの影響が大きいし、回復にかなりの期間を要するのではないかと感じる。

 就活、大学受験にも多大な影響が出ている様子。 特に就活においては、コロナ蔓延は大きな影を落としているらしい。 また企業活動においても、仕事の仕方の改革ではなく、人流抑制の目的で通勤を自粛するという本来の目的ではない変革となってしまった。

 個人的な感想ではあるが、仕事の仕方から派生したニーズではないテレワーク、いずれ企業活動に大きなダメージを与えるだろう。

良い仕事ってなんだろう

 新型コロナ禍、毎日満員電車での通勤が当たり前だった日々が一変し、在宅勤務をされている方も多くおられると思います。 テレワークやネット会議で仕事の効率を上げておられる方もおられる反面、対面の仕事と勝手が違い満足できる仕事と言えない方もおられるのではないでしょうか。

 仕事と云うものは、営業マンなどの様に数字で成果を問われる場合は別として、相手様の反応や自分自身の満足感が「良い仕事」か出来たかどうかの尺度になる場合が多いのではないでしょうか。 昨今の状況から筆者自身もネットを介した業務環境に置かれ、時折り「靴の上から足を掻く」じれったさを感じることがある。 対面の仕事では感じることが出来た熱気と云うか肌で感じるものが薄い。

 そう云った感覚は年配の者だけなのだろうか。 生身の人間は、ネットを介した会話や画面に映し出される書類だけではない何かエネルギーの様なものを遣り取りしているのではないかと思える。 対面の仕事に於いて相手に伝わるものを私は以下の様に捉えている。

仕事を通じ相手に何かを伝えようとする時、大きく2つのポテンシャル要因が考えられる。
  ① 特 性 : その人の基本的な人的特性要因
  ② 安定性 : その人の個人的なことを含む環境条件に左右される要因

この様に言うと、人間の特性はそんな簡単なことで表現できるものではないとのご指摘を受けるのは重々承知しているが、判断する上での何らかの指標になればと思う。

次回以降、このポテンシャル要因にそれぞれについて、もう少し深く解説したい。

組織におけるスタッフの機能特性の活性化


 組織におけるスタッフの立ち位置は、組織が求める職務への貢献内容、貢献度合いによって議論されるべきだろうと考える。 しかし、組織が求めるとは言え、求める側も求められる側も互いに人であり、どうしても相対的関係にならざるを得ない。

 日本の高度成長期においては、企業や組織が求めるものは、「量」「質」「時間」という判り易い目標値に向かって邁進していた。 社会が安定期となった近年においては、「量」「質」「時間」という物理的な目標に縛られることなく、「多様性」「適合性」などの柔軟な要求への対応が迫られ、仕事そのものも決まったテンプレートの上に置かれるものではなくなった様に思える。


免許更新時の「高齢者講習会」

 運転免許更新時に、「高齢者講習会」の案内が来てしまう年齢になった。 案内に従って、近くの運転教習所に申し込み、先日出席した。 教習所で話しを聞いてみると、1日当り、12人単位で2グループしか処置できないらしい。

 講習会の内容は、
  ・運転実習、注意事項
  ・交通法規の特に改正点の説明
  ・視力
  ・視野
  ・接近に対する視力反応
  ・照度変化に対する瞳孔反応
などのメニューだった。
これほど内容が充実できているのだから、料理教室の様な講習会で終わらずに、公安委員会なり警察へ提出を義務付けた審査結果にすべきではないだろうか。

教習所の教官がアドバイスしかできない現在のルールにおかしさを感じる。 こんなことでは何時までも「高齢者だから・・・」と言われる交通事故は減る訳がない。

 更に、高齢者講習で行われる内容は、高齢者だけでなく、免許保有者の全てに義務付けるべきではないだろうか。

骨董品の情報システム屋が目指すもの

「人」と「組織・仕事」の調和、そして「人」と「情報」の調和を目指して

 これまで企業や組織は業務の効率化や質の向上を求め、その特効薬的方策の一つとして「情報」の有効活用を目指して来たと思います。 企業組織の業務効率化は、1960年代からコンピュータ導入が盛んになることに呼応して、「ヒト」「モノ」「カネ」という経営資源に止まらず、それを適切に活用するための「情報」も重要な経営手段と位置付けられる様になりました。 その結果、情報活用のための電子技術も互いに切磋琢磨する様に、信じられない発展を遂げ今に至っています。
 それらの手段は日常生活にも浸透し、コミュニケーションや情報公開・入手に不可欠なものとなってきました。 しかし、その発展が「ヒトを人として高めたか?」と考えると疑問な点も多々あると感じます。
 我々は、情報や情報処理手段に振り回されるのではなく、それらを有効に活用することにより、仕事や日常生活に於いて「安心・安定」を享受できる「人を要」とした情報活用環境の実現に寄与したいと努力しております。

 現在、「人」と「情報」の調和をめざし、いかがわし集団(団体)に参加しています。
その団体の名称は「キャリア・アナライジング研究所 略称:A-LAB」です。
なんじゃ~、そりゃ!という感じですが、近いうちにお役に立てることを目指しています。

  URL : https://code-think-place.com/bizdemarche/ca-lab.pdf

                    一度ご覧いただければ幸いです。


「見当」という言葉

 浮世絵などの緻密な絵が版画であることを知ったのは、高校時代だった様に記憶している。 油絵や水彩画とは違う趣きがある日本の版画は海外の画家やコレクターにとっては重要な芸術品らしい。 芸術に造詣を持たない私は深い魅力を感じる訳ではないが、その細かい仕事には驚く。 しかも選ばれた材質ではあろうが、「木材」と云う割れやすい素材での細工には相当な苦労と技があるのだろう。


 単色刷りなら、版下を1つ作れば良いが、多色刷りとなると色の種類ごとに版木をそれぞれに作っていくらしい。 色の数だけ制作された版下を順次重ね合わせて刷り込んで行くのだろう。 しかし、版画としての完成図から色の種類ごとに版下を分解し、それをつなぎ合わせた結果をイメージできるという力量は、私には想像できない。

 しかも寸分の狂いもなく、一枚の紙に重ね刷りされるその技は、版木を彫る難しさに劣るものではないだろう。

 何枚にも彫り分けた部位ごとの版木に目的の色を付け、和紙を押し当て絵を写し取って行くためには、ちょっとしたズレも許されない。 このためには、色ごとの版木の共通した位置に、和紙を位置合わせする「目印」が彫り込んであるらしい。
 この紙を合わせる目印のことを、『見当』というらしい。

見当をつける」、「見当外れ」などは、日常何気なく利用する言葉であり、版画が起源であることを知らずに使っていた自分を恥ずかしく思う。

 木版印刷は、凸版印刷の基本だろうと思う。 印刷の歴史においても同じ内容の印刷物を制作するための基本的な技術であり、凸な部分にインクをつけ、紙を押し当てることで同じ印刷物を多量に制作することができる便利技法であろう。 東洋においても、西欧においても何百年、いや千男百年も以前に生み出されたものらしい。 同じ内容を多くの人に知らしめるためには恰好の方法だろう。 そんなことで宗教の世界での普及は歴史的遺産としても著名なものを作りだしている。
 Wikipediaに木版を彫る彫り師の木版画と云う面白い内容の紹介が記載されていた。(右図)

 大阪弁なのか、「しんきくさい!」、「らちがあかぬ!」という日常的な言葉に使われている「しんき」や「らち」という単語にも語源がある。 この様なことも豆知識として知っていると面白いものである。

テレビ報道で見た「新聞配達所」のご苦労

 読まれなくなった新聞に関する話題は色々あるが、各新聞配達所は購読者の目減り防止、しいては新規購読者の獲得に大変なご苦労がある様だ。

 新聞を配達して貰っている側の感覚としては、特段気に止めることがないご苦労も多々ある。 例えば、かなり以前からではあるが、雨の日に投函される新聞がビニールの袋に入れられる様になった。 確かに雨に濡れた新聞はどうしようもなく、乾かしても紙がよれよれになり、ページをめくるのも儘ならない。 こんなことへの配達所の配慮でビニールで封をする様になった。

 折角の配達所の配慮も見方を変えれば、最近話題になっているレジ袋と同じ様にプラごみ公害の一因になるのかも知れない。 全てにおいて良いことばかりとは行かない様だ。

 テレビ報道では、最近雨の日以外もビニールで封をする配達所があるらしい。 天候不安定な昨今、万が一の夕立対策かと思いきや、「花粉対策」だとの説明だった。 花粉症ではない小生にとっては思いもよらぬ理由だった。 未明に投函された新聞を朝ページを捲るだけでくしゃみが出るという購読者との雑談を聞いてその様な対処をすることになったと云う説明だった。


 花粉とは無縁の筆者にとっては、なるほど!と言ってしまうようなことだった。

 この様なサービスのために自動包装機なるものが存在する。 新聞に限らず濡れや汚れを避けたいものを手早くビニールに封入する装置である。 素人が思いつく様な便利道具は大抵存在する。